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2024/03/01
津村記久子さん、藤原辰史さんとトークイベントをおこないました(@Lateral 大阪)

 3月1日の夜に、大阪・梅田で、作家の津村記久子さん、歴史学者の藤原辰史さんと3人で鼎談をおこないました。津村さん、藤原さんというビッグなお二人に、私の『増補新装版 ローカルボクサーと貧困世界』を評していただける機会ということで、本当に夢のような時間でした。会場には、吉川徹さんもお越しいただいていて、とっても有り難かったです。

 この日の夜の思い出は、ひとり大切に胸にしまうこととして、津村さんの『水車小屋のネネ』(イベント後に津村さんにサインをしてもらいました!)について。この本は、短大に入学予定だった18歳の理佐がバイトで貯めていた入学金を、彼女の母親がお付き合いしている男性の事業のためにつぎ込んでしまい、理佐が短大に行けなくなることから始まります。そして理佐は、母親のパートナーの男性に怒鳴られる8歳の妹の律を引き連れて、渓谷の村の蕎麦屋に住み込みで働き始める・・・1981年に起こったこの出来事から、物語が開始します。

 その蕎麦屋は、蕎麦粉を水車小屋で挽いていて、その水車小屋にはネネと呼ばれるヨウムの鳥がいる。理佐と律とネネの三者の周りに、いろんな人たちが、立ち現れて、そして去っていく。物語はパンデミックの2021年で終わります。8歳だった律は、38歳になりました。

 貧しさとネグレクトの話が、この小説の大前提にあるのだけど、でも、その紋切り型で決して掬えない逸話が節々に収められている。私はなかでも、この本を通じて「与える」ことについて、ずっと考えていました。理佐も律も、他の登場人物も、決して余裕のある暮らしではないのだけど、でも、相談に乗ったり、自宅で取れた果物を持ってきたり、別れの日に見送りに行ったり、迷った人を手助けしたり、そうやって小さな与えること/与えられることを結晶化させて、固有の人生を形作っていく。忙しく働いている手を止めて、時間をその人のために与えて、やってくる人たちの姿。自分のことだけに注力する(これは理佐の母親の姿でもある)のではなく、他人のことを構いながら生きていく、ささやかな、だけど手応えのある人生。

 これは、富や名誉を「手にする」(あるいは「所有する」)ことを至上とする生き方とは、たいへん対比的なように思った。人が死の間際で直面するのは、その人が「与えて」きたものであって、その人が「手にして」きたものではないよな、と最近思ったこともあって、そんなことを考えながら、『水車小屋のネネ』を読みました。

 「与える」ということを強調すると、ユートピア的になってしまうのが嫌いなのですが(「美しい人間の姿」的な)、もっと人が生きていく実相で、与え与えられて生を形作っていく模様が、津村さんの小説には描かれているように思う。そしてそれは、誰かを「救う対象」として見るような救済論的な視座とは正反対であるようにも思いました。

 ・・・当日、私が津村さんの前で「ネネが〜」といったふうに、ネネをまるで自分の友達のように話してしまい、津村さんは苦笑されておりました。作中の人物をこんなに愛おしいと思うことは、そうそうないことだと思います。