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【2024年2月22日】猪瀬浩平さんとトークイベントをおこないました(@UNITÉ)

 旧知の猪瀬浩平さんと対談をおこないました。場所は、これまでもお世話になってきた三鷹の書店UNITÉでした。猪瀬さんの『野生のしっそう』と私の『増補新装版 ローカルボクサーと貧困世界』のダブル刊行イベントで、あっという間の90分間でした。

 終わってから、猪瀬さん、および来場者のみなさんの有志で、三鷹駅近くで飲みましたが、なんと参加者数が15名以上というUNITÉ史上、最大の懇親会参加者数だったのではないかともいます。本を出して、その本について著者が話をして、そこに聞きに集まってくれた方々と、終了後に卓を囲む。素敵な時間でした。

 猪瀬さんと初めて会ったのは、コロナ禍前のたしか2020年だったように記憶しています。もちろん、その前から猪瀬さんの仕事は読んでいたのだけど、会うきっかけになったのは、藤原辰史さんのサントリー学芸賞の表彰式に二人とも参加していたからでした。藤原さんフリークの猪瀬さんと私。

 猪瀬さんの今回の本では、ブルーハーツの逸話が複数出てきて、甲本ヒロトの実家が、私の実家のすぐそばだったこともあり、ブルーハーツ話でも盛り上がった夜でした。

 このトークイベントの趣旨文は以下。いつものようにUNITÉの大森さんが作成してくださいました。

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他者とは何か
──身体性から考える

<告知文案>
「他者」って曖昧で掴みどころがない言葉です。なんでも包摂してくれそうな気がするので便利な言葉ですが、はたして「他者」とは誰のことなのだろうかと疑問に思います。

猪瀬浩平さんの『野生のしっそう』(ミシマ社)を読んでいると、「自己」と「他者」の間に引かれる境界線が恣意的なものであることに気付かされます。たとえば日常生活において自分にとって都合の良い人に対しては共通点を見出そうとする一方で、都合が悪く距離を置きたい人に対しては相違点を探し出すという心理には身に覚えがあります。また自らが意識的に線引きをしない場合にも国家や社会によってすでに引かれている線を無意識になぞっていることが多く、その線の根拠を疑うことはあまりありません。そして、そのような恣意的な線によって切り取った「他者」にはおのずから自らとの違いが強調されるような端緒が含まれているような気がします。「他者はどこまで理解可能か」と問うとき、まず「他者」とは誰だろうと問う必要がありそうです。

その上で、今度は「他者」をどのように、そしてどこまで理解することができるのかについて考えるとき、猪瀬さんの『野生のしっそう』と石岡丈昇さんの『ローカルボクサーと貧困世界〔増補新装版〕』(世界思想社)は重要な手がかりを与えてくれます。猪瀬さんは(障害があるとされている)お兄さんのしっそう【疾走・失踪】と併走することで、石岡さんはフィリピン・マニラのスクオッター地区のボクシングジムでボクサーたちと生活を共にすることで、それぞれ血肉のある他者理解へと迫ります。猪瀬さんは文化人類学、石岡さんは社会学と専門にする分野は異なるものの、その方法には共鳴するところが多いように思います。ここはぜひお二人の対話から探りたいところですが、その一つには同じ方向を向いた他者理解のあり方があるといえそうです。つまり、動物園で檻の中のライオンを観察するような対象と向き合った視線ではなく、一緒に併走したり、ベンチで横並びに洗濯物を洗ったりするときのような同じ方向を向いているような視線のあり方です。

他者がヴァーチャルに捉え難くなっている社会の中で、改めて「他者」の存在について、そして「他者はどこまで理解可能か」という問いについて考える緒になるような時間になればと思います。ぜひ、一緒に走りましょう。ご参加お待ちしております。